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衆議院解散選挙 過去の名前の一覧表 第15回(大正13年)〜第49回(令和3年)

世相を反映する面白ネーミング? 衆議院の解散の名前とは?

衆議院の解散選挙には、毎回マスコミなどで名前が付けられています。
古くはバカヤロー解散や安保解散、最近では郵政解散やアベノミクス解散などが有名ですね。

他にはどんな名前があるのか? 過去の解散総選挙に付けられた名前を調べてみました!

過去の解散名の傾向は?

調べてみると、分かった範囲では、大正13年の第15回の解散総選挙で初めて名前が付きましたが、第17〜19回では一旦名前が無くなり、その後、第20回の選挙で復活してからは、毎回なにかしらの名前が付けられています。

正確には誰の発案か分からないものもありますが、基本的には、世間で受け入れられた名前が定着して解散名となります。中には1つに決めきれず、複数の名前が付けられる回もあります。

ということで早速、過去の衆議院選挙に付けられた名前を見てみましょう。
※出典はwikipediaより

過去の衆議院選挙に付けられた解散名・解散当時の内閣名付き(一覧リスト)

数が多いので、まずは解散名だけをまとめて紹介します(時間のない人はここだけ見て下さい)。

  • 第15回(大正13年)【清浦内閣:懲罰解散】
  • 第16回(昭和 3年)【田中内閣:普選解散】
  • 第20回(昭和12年)【林内閣:食い逃げ解散】
  • 第21回(昭和17年)【東條内閣:翼賛選挙(任期満了で解散ではない)】
  • 第22回(昭和20年)【幣原内閣:終戦解散・GHQ解散】
  • 第23回(昭和22年)【吉田内閣:新憲法解散】
  • 第24回(昭和24年)【吉田内閣:馴れ合い解散】
  • 第25回(昭和27年)【吉田内閣:抜き打ち解散】
  • 第26回(昭和28年)【吉田内閣:バカヤロー解散】
  • 第27回(昭和30年)【鳩山内閣:天の声解散】
  • 第28回(昭和33年)【岸内閣:話し合い解散】
  • 第29回(昭和35年)【池田内閣:安保解散】
  • 第30回(昭和38年)【池田内閣:所得倍増解散・ムード解散・予告解散】
  • 第31回(昭和42年)【佐藤内閣:黒い霧解散】
  • 第32回(昭和44年)【佐藤内閣:沖縄解散】
  • 第33回(昭和47年)【田中内閣:日中解散】
  • 第34回(昭和51年)【三木内閣:ロッキード選挙(任期満了で解散ではない)】
  • 第35回(昭和54年)【大平内閣:増税解散】
  • 第36回(昭和55年)【大平内閣:ハプニング解散】
  • 第37回(昭和58年)【中曽根内閣:田中判決解散】
  • 第38回(昭和61年)【中曽根内閣:死んだふり解散】
  • 第39回(平成 2年)【海部内閣:消費税解散】
  • 第40回(平成 5年)【宮澤内閣:嘘つき解散・政治改革解散】
  • 第41回(平成 8年)【橋本内閣:小選挙区解散】
  • 第42回(平成12年)【森内閣:神の国解散】
  • 第43回(平成15年)【小泉内閣:マニフェスト解散】
  • 第44回(平成17年)【小泉内閣:郵政解散】
  • 第45回(平成21年)【麻生内閣:政権選択解散】
  • 第46回(平成24年)【野田内閣:近いうち解散】
  • 第47回(平成26年)【安倍内閣:アベノミクス解散】
  • 第48回(平成29年)【安倍内閣:国難突破解散】
  • 第49回(令和3年)【岸田内閣:未来選択解散??】




過去の衆議院選挙に付けられた解散名・解散当時の内閣名付き(名前が付いた背景の説明付き)

第15回(大正13年)【清浦内閣:懲罰解散】

当初、衆議院の任期満了までの選挙管理内閣として発足した清浦内閣ですが、それにも関わらず、清浦首相が政権続投への意欲を見せたために解散が強行されました。不景気不人気の中で行われたこの解散は「懲罰解散」と呼ばれ、国民各層の憤激を買ったと言われています。

第16回(昭和3年)【田中内閣:普選解散】

野党の民政党が内閣不信任案を提出して解散となりました。1925年(大正15年)に公布された普通選挙法に基づく最初の総選挙であるため「普選解散」と呼ばれます。別名、第1回普通選挙と呼ばれる場合も。

第20回(昭和12年)【林内閣:食い逃げ解散】

重要法案に対する野党の審議引き延ばしに業を煮やした林首相が、議会における与党勢力の躍進を期して、解散選挙に打って出ました。しかし解散の時期が予算案成立の直後であり、他に理由も乏しいことから「食い逃げ解散」として国民の反発を受けました。

第21回(昭和17年)【東條内閣:翼賛選挙(任期満了で解散ではない)】

1940年、既に結社を禁止されていた政党を除く全ての政党が自発的に解散し、大政翼賛会に合流しました。そして自由選挙に代わり、国策に忠実な議員による新しい議会制度の確立を目指し、任期終了を待って実行されたため「翼賛選挙」と呼ばれました。戦時中唯一の総選挙であり、この選挙によって挙国一致体制が確立されました。

第22回(昭和20年)【幣原内閣:終戦解散・GHQ解散】

GHQが幣原内閣に指令を出して行われたため、「終戦解散」GHQ解散」と呼ばれています。この解散を受けて、当初翌年1月に行われるはずだった総選挙は3ヶ月延期され、立候補予定者の資格審査(軍国主義者の排除)の後、1946年(昭和21年)4月10日に実施されました。

第23回(昭和22年)【吉田内閣:新憲法解散】

貴族院議員である吉田茂が首相となっていた第1次吉田内閣は、「天皇の大命により組閣する」という大日本帝国憲法下の手続きを経て作られていました。そこで、日本国憲法の施行を直前に、自らの正統性を世に問う目的で行われたために「新憲法解散」と呼ばれてます。

第24回(昭和24年)【吉田内閣:馴れ合い解散】

少数与党だった吉田内閣は、憲法上、不信任の可決なしで解散ができるのかという問題に直面して野党と対立。そこでGHQが仲介に乗り出し「与野党が内閣不信任決議に賛成して可決させた上で、衆議院を解散する」こととしましたが、与野党のシナリオどおりに解散されたという経緯から、世間はこの解散を「馴れ合い解散」と呼ぶようになりました。

第25回(昭和27年)【吉田内閣:抜き打ち解散】

GHQの占領が終了し鳩山一郎らが公職追放を解除されて政界に復帰すると、鳩山を支持する議員たちが吉田首相の辞任を要求し、政局が混乱。吉田は事態を打開するため、国会召集の3日後に不意をつく形で解散を断行しました。準備の整っていない鳩山派に打撃を与える目論見であったため「抜き打ち解散」と呼ばれました




第26回(昭和28年)【吉田内閣:バカヤロー解散】

衆議院予算委員会で、吉田首相と社会党の西村議員が質疑応答中、吉田が「バカヤロー」と発言したことがきっかけで解散されたため「バカヤロー解散」と呼ばれます。

「バカヤロー」と書くと大声を出した印象を与えますが、実は吉田が小さな声で呟いた「ばかやろう」を偶然マイクが拾ったものであり、吉田は直後に発言を取り消し、西村もそれを了承しています。しかしこの失言を議会軽視の表れとした社会党右派が動議を提出し、騒ぎが大きくなりました。

第27回(昭和30年)【鳩山内閣:天の声解散】

首班指名を受ける見返りとして左右社会党に対して早期解散の約束をしていた鳩山一郎は、その翌月、約束通り解散を行います。後刻、新聞記者に「なぜこの日に」とたずねられた鳩山は、淡々と「天の声を聞いたからです」と答え記者をうならせたため、「天の声解散」と呼ばれました。

第28回(昭和33年)【岸内閣:話し合い解散】

岸首相と鈴木日本社会党委員長の党首会談で、野党の内閣不信任決議案の上程に合わせ、岸が議会を解散すると合意したため、「話し合い解散」と呼ばれています。岸は党内外の基盤固めを、社会党は勢力拡大を狙い、ともに呉越同舟するも、結果として議席数はともに大きくは変わりませんでした。

第29回(昭和35年)【池田内閣:安保解散】

国民の視線を「対立争点」である政治・外交から「合意争点」である経済・内政へとシフトさせ、安定した支持を取り戻そうと考えた池田首相が、安保闘争のほとぼりが冷めた頃合いを見計らい解散したため、「安保解散」と呼ばれています。

第30回(昭和38年)【池田内閣:所得倍増解散・ムード解散・予告解散】

池田政権が推し進めていた所得倍増政策や、翌年の東京五輪へ向け、国内政治のより一層の安定を目指して解散したため、「所得倍増解散」と呼ばれます。衆議院の任期満了や五輪の開催を翌年に控え、争点の有無より、日程的にやるなら今だという理由で決められたため「ムード解散」、周囲に解散を漏らしていたので「予告解散」とも。

第31回(昭和42年)【佐藤内閣:黒い霧解散】

前年より日本政界を揺るがしていた一連の黒い霧事件を受け、政界刷新を求める世論の声が高まりました。そこで佐藤首相が政権の求心力回復を期し、局面の転換を図るべく衆議院解散に打って出たため、「黒い霧解散」と呼ばれます。

第32回(昭和44年)【佐藤内閣:沖縄解散・師走選挙】

沖縄本土返還を果たした佐藤首相が、その成果を追い風に解散を断行したため、「沖縄解散」と呼ばれています。また、初めて12月に行われたことから「師走選挙」とも呼ばれました。この選挙は土曜日に実施され、日曜日以外に実施された最後の衆院選となっています。

第33回(昭和47年)【田中内閣:日中解散】

日本列島改造論を掲げ、日中国交正常化も果たした田中首相が勢いに乗って解散したため「日中解散」と呼ばれています。しかし列島改造でインフレが進み、都市化も進んだことから結果は不振で、社会党や共産党が議席を増やすことになりました。

第34回(昭和51年)【三木内閣:ロッキード選挙(任期満了で解散ではない)】

田中首相が金脈問題で退陣し、ロッキード事件への関与も疑われる中、事件追及への姿勢を示した三木首相は党内から大反発を受けました。結果として最後まで解散権を封じられたまま、戦後初の任期満了選挙へ。自民党は初めて過半数を割って惨敗しました。選挙の争点から、「ロッキード選挙」と呼ばれます。

第35回(昭和54年)【大平内閣:増税解散】

三木内閣後、自民党内で派閥抗争が高まり、議会でも少数与党であった大平首相が、自民党勢力の回復と党内基盤の強化を図り、解散を断行。選挙中に一般消費税の導入に言及したため、「増税解散」と呼ばれています。結果、消費税は有権者の反発を受けて自民は惨敗、党内の抗争がさらに高まりました。

第36回(昭和55年)【大平内閣:ハプニング解散】

前回の惨敗で党内の抗争がさらに高まる中、参院選を前に野党が「お約束」的に出した内閣不信任案が、自民党の反主流派の欠席により想定外に可決されるというハプニングが起きたことから、「ハプニング解散」と呼ばれます。これにより、初の衆参同日選挙が施行され、選挙中の大平首相の急死もあって自民党が圧勝しました。

第37回(昭和58年)【中曽根内閣:田中判決解散】

ロッキード事件の第一審で田中元首相が実刑判決を受け国会が紛糾。野党は田中元首相への議員辞職勧告決議案の採決を強硬に主張します。国会審議が空転する中、最終的に、重要法案成立後に中曽根内閣が解散を決定。実刑判決がキッカケになったため「田中判決解散」と呼ばれます。結果、自民は過半数を割る惨敗を喫し、新自由クラブを相手に、初の連立政権が成立します。

第38回(昭和61年)【中曽根内閣:死んだふり解散】

最高裁が「衆院選挙区の定数不均衡が違憲状態」であると判決を出し、参院選を前に、野党は定数是正に合わせた同日選を警戒します。そこで中曽根首相は定数是正の周知期間を30日と長く設定することで、同日選は無理だと思わせます。しかし議会で是正が実現すると直ちに解散。野党に早期解散はできないと思わせたことを「死んだふり」と表現したことから、「死んだふり解散」という解散名が定着しました。





第39回(平成 2年)【海部内閣:消費税解散】

消費税導入の反発やリクルート事件の影響から、前年の参議院選挙で自民が惨敗を喫します。そこで自民はクリーンなイメージの海部俊樹を首相に担ぎ、支持率の上昇を受けて解散に出ます。再び消費税導入の是非が争点になったため「消費税解散」と呼ばれました。

第40回(平成 5年)【宮澤内閣:嘘つき解散・政治改革解散】

宮澤首相が「今国会中に衆議院の選挙制度改革をやる」と発言するも実現できなかったことに野党が反発、「嘘つきだ」として内閣不信任決議案を提出。自民党内からも造反者が生まれて可決されたため、「嘘つき解散」と呼ばれます。政治改革がテーマとなったため「政治改革解散」とも。

今のところ、これが内閣不信任案可決による最後の解散選挙です。不信任決議で分裂した自民党は過半数割れし、非自民連立の細川内閣が発足します。

第41回(平成 8年)【橋本内閣:小選挙区解散】

細川内閣やその後継内閣が短命に終わる中、野党が結集して新進党が発足。その態勢が固まる前を狙って、s橋本首相が解散選挙に打って出ます。この選挙は、小選挙区比例代表並立制が施行されて初の選挙となるため「小選挙区解散」と呼ばれますが、テーマ的には曖昧な選挙で、自民党は議席を伸ばすものの過半数には届かず、新進党も伸びを欠いて、解党に向かいます。

第42回(平成12年)【森内閣:神の国解散】

不適切な発言や行動がたびたび指摘された森首相が、神道政治連盟国会議員懇談会で、いわゆる「神の国発言」を行ったことから、「政教分離原則に反する」との批判が高まり、内閣支持率が大きく低下。それを受けて解散したため、「神の国解散」と呼ばれます。

他に、ミレニアム解散、日本新生解散、神隠し解散、森隠し解散、逃げまくり解散など、多くの呼び名が付きました。定着はしませんでしたが、この頃から解散に名前を付けたがる風潮が広がったようです。

第43回(平成15年)【小泉内閣:マニフェスト解散】

熾烈な党内の総裁選で再選を果たした小泉首相が、その勢いに乗って解散を断行。それに対し、小沢代表の自由党が民主党と合同して、イギリス型の選挙公約「マニフェスト」を作って挑み、マニフェストが流行語にもなったため、「マニフェスト解散」と呼ばれました。

また選挙の結果、自民と民主の二つの政党で多くの議席を獲得したことから「二大政党解散」、解散の大義に構造改革を掲げたことから「構造改革解散」とも呼ばれていますが、あまり定着はしていません。

第44回(平成17年)【小泉内閣:郵政解散】

「郵政民営化法案が参議院で否決されれば、自分は衆議院を解散して国民の信を問う」と明言していた小泉首相が、参議院での郵政民営化法案否決を受けて、言葉通り解散を行いました。テーマが郵政民営化だったため「郵政解散」と呼ばれます。

他に各党の党首らが、自爆解散、花火解散、干からびたチーズ解散、驚き解散、日本刷新解散、突発解散、ゆきづまり解散、八つ当たり解散、わがまま解散などと名づけましたが、いずれも定着はしませんでした。

第45回(平成21年)【麻生内閣:政権選択解散】

任期満了の9月を目前にした7月の東京都議会選で自民党が惨敗、民主党が都議会第1党となる中で「安心社会実現選挙」と位置づけ、麻生首相が解散を決定。自民党中心の政権か、民主党中心の政権かを選択する選挙となったことから、選挙後に「政権選択解散」という名が定着しました。

結果は、都議選に続く自民の惨敗となり、民主党が308議席を獲得。その議席占有率は64.2%となり、単一の政党が獲得した議席・議席占有率としては、現憲法下での選挙で過去最高となりました。

他に各党の党首らが、政権交代解散、がけっぷち解散、破れかぶれ解散、ミーイズム解散、これしか選択肢がなくなってしまった解散、麻生降ろし防止解散、自民党の解散みたいな解散、バカタロー解散などと名づけましたが、定着はしませんでした。

第46回(平成24年)【野田内閣:近いうち解散】

「一体改革の関連法案が成立した後、近いうちに国民の信を問う(=衆議院を解散する)」と発言した野田首相が、なかなか解散しないために議会で不満が高まります。結局、議会の質疑で解散の約束がなされましたが、「近いうち」発言から閣議決定されるまで100日間を要したために、「近いうち解散」と呼ばれました。

他に与野党の政治家が、近いうちじゃなかった『近いうち解散』、寄り切り解散、皆殺し解散、バカ正直解散、自爆テロ解散などと名づけましたが、定着はしませんでした。

第47回(平成26年)【安倍内閣:アベノミクス解散】

2014年、消費税の税率が5%から8%に引き上げられ、次いで2015年には再度10%への再引き上げが予定されていたました。しかし安倍政権は経済政策を優先し、2017年への先送りを決定。同時にこの判断の是非について国民の信を問うためとして解散を行いました。

この解散に際し、安倍首相自身が記者会見で「今回の衆院解散を「アベノミクス解散」と位置づけた。アベノミクスを前に進めるのか、止めてしまうのか、それを問う選挙だ」と発言したため「アベノミクス解散」と呼ばれています。

第48回(平成29年)【安倍内閣:国難突破解散】

解散に際し、安倍首相自身が記者会見で「北朝鮮の脅威、少子化。この国難を国民の信を得て、乗り越えていかなければならないと判断し、衆議院を解散した」と発言したため「国難突破解散」と呼ばれています。

これに対して野党からは、疑惑隠し解散、自己保身解散、総理の危機突破解散、疑惑隠し追い込まれ解散、こじつけ解散など。自民党内からも、未来創造解散、小池騒動解散などの呼び方も出ています。

第49回(令和3年)【岸田内閣:未来選択解散??】

解散記者会見で、岸田首相が「新型コロナで傷ついた国民・事業者の皆さんへ経済対策を届ける、全ての国民が等しく成長の果実を享受できる新しい資本主義を作る(中略)今回の選挙は未来選択選挙です。」と発言したため「未来選択解散」と呼ばれ…ることになるのでしょうか?(告示前の10/18に記事追記)

しかし選挙は常に「未来選択」の場なので、「アフターコロナ解散」や「コロナ渦解散」でも良いのでは?という気もします。

衆議院の解散名の決め手は?

毎回、その時々の世相や、解散への経緯を元に付けられる、解散名。

かつては新聞などのマスコミが名前を付け、そこで支持されたものが定着することが多かったものの、最近では与野党問わず、党首や現職議員が、口々に名前を付けるようになりました。

とは言え、実際には解散を決めた首相の言葉が、衆議院の解散の名前に最も近いと言えるでしょう。

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